【コラム:クリエイティブ】YouTubeを使った「インタラクティブ・アド」のかなめ~プロのクリエイティブ力が試される時~
去る3月20日に『第五回東京インタラクティブ・アド・アワード』の結果が発表された。
グランプリは、ネットで話題をさらった「Nike Cosplay」。YouTubeを使ったバイラルマーケティングという、新しい形のプロモーションの存在を、日本に紹介した作品と言えるだろう。
「話題性以外、効果はあったのか?」
と聞きたくなるのは職業病である。
広告の良し悪しを判断する基準は様々あるが、エポックメイキング的な存在の作品は、それだけで表彰される価値がある。
ところで、この「インタラクティブ・アド」とは何だろう?
こんな言葉、ちょっと前までは存在すらしなかったはずだ。
「インタラクティブ」とは「双方向の、相互の、対話的な」という意味を持つ。
つまり、広告の「送り手」と「受け手」の間に、何らかの双方向性が認められる広告が、インタラクティブ・アドということになる。
これは、当然ながらインターネットの登場によって、可能になったことだ。モバイルを含め、それをインタラクティブ・メディアと呼ぶこともある。
裏を返せば、かつてのメディアは一方向的であったということだ。
広告は、広告主が語る“場”であり、それに終始していたのがこれまでの広告であった。
もちろん、生活者は商品やサービスの購買という行動によって、一つの「返答」をしていたのだが、これは双方向のコミュニケーションとは言いがたい。“場”は独占されたままだからだ。
一方、インタラクティブ・アドの場合は、“場”は双方に対して開かれている。例えばYouTubeがいい例である。
プロ・アマ問わず、誰もが動画を公開できるし、誰もが視聴者となり、評価者となることができるのが、YouTube最大の特徴である。
これは、プロの制作者にとって身の毛もよだつ事態である。
実感のない制作者は、強い危機感を持たなければならない。
これまで、マスメディアという玉座でふんぞり返っていた制作者は、一気に引き摺り下ろされ、衆人環視の闘技場に立たされてしまったのだ。
「バイラルCMです」といくら言ってみたところで、どこかの国の、どこかの少年が投稿するホームビデオの足元にすら及ばない場合が多々ある。
メディアの力で守られていた部分は、インタラクティブ・メディアの登場と共に、崩れ去ろうとしている。
広告の制作者は、メディアを操っているようで、メディアという檻に閉じ込められていたのかもしれない。
いきなり大海に投げ込まれた蛙にとって、荒波を泳ぎきるのは容易ではないだろう。
(ちなみに、「井の中の蛙」というが、蛙は海水に放たれると生きられないらしい。)
しかし「Nike Cosplay」の場合は、プロがプロとしての底力を見せている。
ロケーションやバジェットの差はあるものの、Nikeという企業の“らしさ”(=ブランド)と、Nikeの商品から生活者が感じ取るワクワク感を、上手く一つの作品にまとめている。
これを見せられたら、Nikeのサイトにアクセスしない理由はない。
来てね!買ってね!と叫ぶしか能がないエセクリエイティブとは違う、プロのクリエイティブがそこにはある。
以前のコラム(「続きはWebで」の続き-ユーザー参加型のランディングページがこれからの主流!?
)でも触れたように、「続きはWeb(サイト)で」という言葉は、本質的に優れたクリエイティブがなければ、ただのお題目で終わってしまう。
クリエイティブに力があれば、必ず人は動くのだ。
こう考えてみると、インタラクティブ・アドは、必ずしもメディアの力のみによるものではないのかもしれない。
優れたパッケージデザインは、陳列棚で生活者とインタラクティブな交感を生み出しているはずだ。
優れたコピーも然りである。
広告の成功を支える仕組みはたくさんある。
マーケティングを始めとして、人も、物も、情報もたくさんある時代だから、それらのバックアップは広告の成功に必要不可欠である。
しかし、それは全てではない。
不確定要素を、確定的な要素へと近づける努力の形である。
もしマーケティングが全能なら、クリエイティブはいらない。同じマーケティングからは、同じクリエイティブが生まれるはずだ。
だが、マーケティングに完璧はない。データ上の「1」と現実の「個人」は大きな隔たりがある。
「個人」の領域にまで手が届くのは、クリエイティブの力をおいて他にはないのだ。
単なる広告を、効く広告として、「インタラクティブ・アド」にするのは、クリエイターのプライドと力量にかかっている。
新たなメディアは可能性を与えてくれた。それを開花させるのは、プロの力にかかっている。
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